フジスタッフィングホームページ|(3)勢州軍記

 三重県の戦国時代など

勢州軍記について

 三重県に来た時に

 勢州軍記を読むことは

 三重県を知るにあたり

 一般常識と言われたことがある。

 何の事かがさっぱりわからなかった。

 そもそも勢州軍記を知りませんでした。

 不思議と織田信長の話では

 三重県はあまり登場しません。

 司馬遼太郎の小説で「亀山城」が

登場する程度かな。

 「功名が辻」では、

 山内一豊が亀山城の一番乗りをします。

 その時に家臣である五藤吉兵衛が死にます。

 「関ケ原」では、西軍により

 亀山城が陥落したと伝令が来る。

 三重県の扱いは小さいのです。

 勢州軍記では、三重県の情勢が

 細かく記述されております。

北勢四十八家

 戦国時代の三重県について、

 調べると勢州軍記が出てきます。

 その中で北勢四十八家というPOPな匂いの集団が・・・。

 千種家・神戸家・赤堀家・朝倉家・南部家

 楠家・春日部家・海老名家・疋田家・稲生家

 矢田家・田原家・田丸家・後藤家・沼木家

 大矢知家・水谷家・栗田家・高井家・小串家

 草薙家・横瀬家・春日部家・江見家・後藤家

 春日部家・毛利家・松岡家・富永家・保々家

 多胡家・治田家・片山家・西野家・伊藤家

 野村家・浜田家・小阪家・近藤家・種村家

 渡辺家・森家・安藤家・片岡家・西松家

 佐脇家


 三重県の方で上記の苗字なら、

 ご先祖様は北勢四十八家の武将だったかもです。

 ただし、この集団名で何かをした訳ではなく、

 分裂していた総称です。

 織田信長の侵攻で各個撃破されて、すり潰されていきます。

 さらに、北勢四十八家に悲劇が襲います。

 所属先が次々と没落します。

 北勢は、神戸信孝(信長三男)を中心に家督を継ぎます。

 家督争いで自決して、神戸の家臣団も没落。

 滝川一益も北勢に所領を持っていますが、

 本能寺の変などで関東に取り残されて

 家臣団が壊滅して没落。

 伊勢は織田信雄に属したことにより、

 小牧・長久手の戦いの前哨戦である「加賀野井城の戦い」に

 北勢四十八家も巻き込まれて、

 加賀野井城は7日に落城して将兵は断首されました。

 とうとう勝ち組になれませんでした。

 主(あるじ)に恵まれなかった地区と呼べるでしょう。

関の五大将

 北中勢

 関家が亀山市を中心に鈴鹿市までを

 勢力下に治めていました。

 北中勢地区では

 「関の五大将」と呼ばれていました。

 亀山・国府・峯・鹿伏兎・神戸

 関家が分家をしましたが、

 結果的には分裂することになりました。

 神戸家は信長の3男 信孝が養子で入ります。

 神戸家家老山路弾正は一度は信長を退けたものの

 信孝により、謀殺されることになります。

 信長の侵攻により、峯は壊滅します。

 関の本家は、信長に降伏して、

 秀吉側から蒲生氏郷の与力となり、

 その後、関が原での寝返りするなど、

 上手に処世します。

 亀山から転封して、三重県からの縁は無くなります。

 関家は戦国をなんとか乗り越えますが、

 家中内紛により改易されます。


三重県 室町時代の混乱期

 
 三重県も南北朝時代は

 混乱期です。

 南勢地区は北畠家・伊勢神宮など。

 北は、足利系統ですが、

 応仁の乱やら

 滅茶苦茶になっています。

 なにしろ守護が安定していません。

 美濃の土岐家

 尾張の一色家

 伊賀の二木家

 この三家が北勢で守護になったり、

 外れたり、滅びたりします。

 土岐家は世保家と名乗り、

 鈴鹿市上箕田城という

 ごく一部地区を支配をします。

 守護に任じられますが、
 
 戦力不足で鈴鹿から出られないレベルで

 本家とも応仁の乱で争う状態です。

 ちなみに世保土岐持頼は

 お盛んな人で

 6年間で都合12件の密通が

 記録されております。

 美濃の土岐家もいろいろあって、

 一色氏が土岐氏の名跡を継ぎ、

 世保家が実質本家筋になったりします。

 伊勢守護がシッカリしなかったので

 北勢四十八家などに分裂していたのでしょう。

 海上の警護も

 幕府の水軍が伊勢神宮の水軍や

 鳥羽の海賊などに

 勝てなかったので、

 答志島警護役を四日市市で

 行っています。

 任地に辿り着けないというレベル。

 両統迭立した後も火種は絶えず、

 正長の乱では、南朝側が反乱を起こします。



 (南朝勢力反乱軍)

 伊勢の北畠氏・四日市の赤堀氏(答志島警護)・

 亀山の関氏・伊賀の澤氏・秋山氏

 (幕府軍)

 鈴鹿の土岐(世保)氏・津の長野氏

 知多の一色氏・伊賀の仁木氏



 結果は、北畠満雅が雲出川で大勝して、

 勢いのまま進出するが、

 岩田川で討ち死にします。

 幕府軍の勝利です。

 その後、将軍足利義教は、

 幕府軍の世保持頼を長野満藤に暗殺させます。

 一色義貫も追討を受けます。

 ここで津市の長野氏と鈴鹿の世保氏に因縁がつきます。

 対北畠への長野世保同盟を幕府が壊すことになりました。

 鈴鹿の世保氏は、1470年に伊勢の北畠教具により

 鈴鹿市林崎・若松・柳・楠原を

 攻め落とされております。

 1471年には伊勢守護が世保氏から北畠氏に変更されています。

 1473年に世保氏は長野氏を救援に来た斎藤妙椿と争い敗れたようです。

 世保(土岐)氏は悲惨です。本来は北朝側で北畠氏と戦っていた。

 幕府から同盟関係の長野氏に裏切られて当主を殺されて仇敵となり、

 もともとの仇敵であった北畠に攻められて、守護の立場を追われて、

 守護代の斎藤氏により実家の美濃を一色氏に乗っ取られる。

 そして、領地を無くして、京都へ逃げたと思います。

 室町幕府に出仕して、西軍にかつがれて

 美濃で斎藤氏と戦うも敗れて、

 世保氏の消息が不明となります。


分部氏

 中勢地区(津市)は、

 長野家が支配しておりましたが、

 北の神戸家、南の北畠家に挟まれて、

 養子を受け入れて命脈を保っておりました。

 信長侵攻により、織田信包を養子に受け入れて、

 転封などで織田信包が長野姓を排して

 消滅することになります。

 転封により主がいなくなった為、

 家臣であった分部光嘉は、

 独立大名となります。


北畠氏

 南勢地区(松阪市・伊勢市)

 北畠氏は室町時代において南朝の雄である。

 凄く強い一族であるが、あっけない一面があり、

 悪い意味で下剋上を体現している。

 足利尊氏と争った北畠顕家は、

 秀吉の大返しのような行軍を成功させるが、

 20歳で討ち取られる。

 北畠満雅も足利義満に逆らい戦を起こし、

 和睦して生き残り、

 足利義教の時代に再度戦争を起こしたが、

 あっけなく討ち取られる。

 北畠氏は、攻める際は無敵となるが、

 過信して討ち取られる。

 無様に逃げまくることをしない。

 その代表は、北畠具教である。

 武を極めて、剣豪となってしまった。

 信長に降伏した後、

 隠居していたが、三瀬の変により討ち取られる。

 強すぎたのが理由なのでしょう。

 観光では、うっそうとして何もありませんが、

 阿坂城には、白米城伝説があります。

 籠城していた北畠満雅が水不足を隠すために

 馬を洗うことで水が豊富にあると見せかける計略で、

 水の代わりに白米を使って、馬の背に白米をかけて

 水が豊富の様に見せたという伝記です。